2001年9月11日は私の人生にとっても、またアメリカや世界の多くの人たちにとっても忘れることのできない歴史上も大きな出来事が起きました。
今年、2026年はすでにあの事件から25年、当時30代だった私も60歳になり、会社を退職する年齢を迎えました。今でも、多くの人に、あの時は大変だったね、とか、あの出来事は大変だったろうから、何があったか聞いてみたいけど、辛いだろうから聞けないんだよね、ということを言われることがあります。確かに、飛行機がぶつかった際の衝撃、その後の建物内の様子、臭い、などは今でも忘れられないものです。
ただ、年月が過ぎ、私も歳をとっていく中で、これからますます物忘れが激しくなることは目に見えているため、記憶が薄れてなくならないうちに、文章にまとめ、歴史の事実の記録として残すとともに、こういうことがあったんだ、ということを生の記憶として多くの人に知ってもらえたらと思い、文字に起こしました。
==目次==
損害保険会社への入社と営業の苦労
阪神大震災
アメリカと関わる最初の業務
2000年4月、念願の海外赴任
2001年9月11日
午前8時46分
脱出
崩壊
取材
家族への連絡
避難
帰宅
翌日
Heroes
人々
復旧
帰国
再訪
あとがき
損害保険会社への入社と営業の苦労
私は1990年に神戸市内の大学を卒業しました。外国語を専攻していた私は、損害保険会社なら、海外にも事務所があるし、きっと海外勤務希望の人も多くないのではないか、と(安易に)考え、損害保険会社に入社しました。この会社を選んだのは、同じ大学の1年上の先輩が入社しており、OB訪問などのルートがあったから、ということと、自分が学生時代に数ヶ月過ごしたスペインのマドリードに駐在員事務所があるので、そのうち行けるかも、という安易な理由からでした。同級生の多くは関西に本社を置く電気系メーカーや旅行会社への就職が多く、金融機関を考えている人はとても少なかったと思います。もっとも、自分自身、金融機関への就職を真剣に考えていたかというと全くそうではなく、大学3年が終わって、4年になる前にスペインに留学(遊学!?)するため1年休学していて、1年後の4月に帰国、慌てて就職関連の資料を取り寄せ、結局面談まで進んだのはこの1社のみでまともな就職活動もしませんでした。バブル全盛期の売り手市場の恩恵を大いに受けたことになります。今の大学生は3年生のインターンシップから始まり、4年生になれば毎日黒のスーツを着て毎日毎日会社訪問って大変だなぁ、と他人事ながら可哀想になります。
さて、上記のとおり、なんの苦労もせず、あっさり入社できたわけですが、入社後最初の2年間は私にとって地獄の日々でした。世の中は経費使い放題で浮かれまくり、というような状況だったと思いますが、都内の営業支社に配属された私は埼玉の奥地の独身寮と支社の往復、毎日上司に叱責されつつ終電間際まで働いて、休みの日も出社、当然飲み会などの暇は全くなし、営業成績もパッとせず、いつも上司に叱られてばかり、という状況で疲れ切っていて、上司に退職の意向まで伝えたこともありました。まあ、私自身の仕事への取り組み姿勢が甘かった、ということなのですが、その結果、通常入社後3年は異動がないところが、私は2年で地元神戸の火災保険などの保険金支払い部署に異動になりました。
こちらの部署では営業時代ほど残業時間は長くなく、上司も素晴らしい人で同じ会社でも部署が違えばこんなに環境が違うんだなあ、と思ったものでした。
とはいえ、仕事は覚えることが多く、当時の上司は穏やかで声を荒げるようなことはありませんでしたが、私の提出した書類には必ず、10箇所以上に指導コメントが添えられた付箋が付けられて返ってきました。自分のいい加減さや、業務理解の浅さに落ち込んだものです。
阪神大震災
神戸勤務3年目が終わろうとする1995年1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源地とする阪神淡路大震災が起きます。幸い自宅は無事でしたが、会社の事務所が入っているビルは大破し、入館禁止となり、使えなくなってしまいました。生まれ育った神戸の街の様子は一変し、この先どうなるのだろう、と途方に暮れたものでした。
しばらくして、近くの別のビルに移転し業務も再開しましたが、一般の火災保険契約では地震による損壊や地震を原因とする火災はお支払の対象外となり、地震保険の特約を別途付保しないといけないのですが、特に、神戸では地震なんて起きない、と思っておられる方も多く、地震保険を付けておられない方には保険金の請求をいただいてもお断りせざるを得ない状況でした。私の所属していた部署はまさに火災保険のお支払い担当課だったので、事務所の引越しと立ち上げ、県外からの支援者の受入れ、お客さま対応、など、まだまだ若造でしたが、本社との調整や交渉、お客さまへの説明、外部機関との打ち合わせなど、全方位的に業務をこなさざるを得ない毎日でした。お客さま対応では、保険金のお支払いをお断りする度に、厳しいお言葉も頂戴しました。かなり精神的にはきつかった記憶があります。
アメリカと関わる最初の業務
1997年1月、神戸の街に復興の兆しが見えるようになった頃、東京本社にある海外の事故の損害サービスと保険金お支払い業務を担当する部署に異動になりました。
この部署では日本の製造業を契約者とする海外に輸出した製品の製造物賠償責任保険関連の訴訟に関係する支援業務や海外旅行保険の保険金お支払業務を担当し、ニューヨークにで同様の業務を行なっている子会社の社内弁護士や社外のアメリカ人の弁護士なんかと慣れない英語、しかも難しい法律用語と格闘しながらメールなどでやり取りをしていました。2000年3月までの3年間、初の海外出張なども経験し、少しずつ自分の夢に近づいた気がしました。
2000年4月、念願の海外赴任
2000年4月、入社11年目となったところで念願の海外勤務となりました。大学ではスペイン語を専攻していて、赴任先がスペイン語圏でないことに半分冗談で不満を口にすると、同僚から、世界の中心のニューヨーク勤務なんだから文句言うな!と叱られたものです。
赴任先は、元々私がいた損害サービス部門が管轄する製造物責任保険に関する訴訟関連業務や海外旅行保険の支払い業務を行なっている現地法人で、事務所はニューヨークダウンタウンにあるワールドトレードセンター北棟の90階にあり、駐在員は私と、船舶や貨物保険の担当をする駐在員、そして同じ現地法人の出先がロサンゼルスにあり、そこに1名の合計3名、現地スタッフがニューヨークに6名、LAに2名、という小所帯でした。ニューヨークがその会社の本社でしたが社長は日本の本社の部長だったので現場で実際に会社運営を担当するのは私歯科おらず、会社の会計や会社運営など全くわからないため、決算業務を委託していた会計事務所の方に教えてもらったり、本を読んで勉強したり、と毎日がわからないことの連続でした。それに加え、英語はそこそこできると思っていたのが、社内に二人いる社内弁護士と仕事のやり取りなんかをしていても全く通用せず、「それでもあなたの英語は日本人の中だとまだマシな方だよ」的なことを言われさらに落ち込んだり、海外で働くって厳しいなぁ、とひしひしと感じていました。とはいえ、90階の窓越しに見る夕陽の美しさは今も忘れることができません。
私生活では、居を定めたのはニュージャージー州バーゲン郡のグレンロック市にある築80年ほどの一軒家。窓がきちんと閉まらなかったり、相当年季が入った家でしたが、広い芝生のバックヤードにはバーベキューコンロも備え付けてあり、夏は外でバーベキューして楽しむ、などアメリカの豊かな生活を満喫しました。スカンクの臭い、というのも初めて知り、何事も体験してみないとわからないことがあるものだ、と鼻をつまみながら実感しました。
秋には長女も生まれ、充実した毎日を過ごしていました。
2001年9月11日
あの日の朝は、よく晴れた朝でした。
その日は、得意先との会議が予定されていて、準備のため、やらなければいけないことがいっぱいでした。と言っても出社はいつも通り、Glen Rockの駅からNJ Transitに乗ってHobokenまでいき、そこからPath TrainでWTCまで向かいます。
Path TrainのWTC駅は地下深くにあり、いつものように長いエスカレーターで1階まで行き、カード式の入館証で入場、そのまま高層階78階スカイロビーまでのガタガタ揺れるエレベーターで気圧の急な変化で耳が痛くなりながら一気に上り、そこでさらに乗り換えて、90階のオフィスに到着、という垂直にも長い道のりの通勤でした。
いつもオフィスに着くのが大体8時30分前後だったと記憶しています。
午前8時46分
ニューヨーク事務所は私の所属する子会社以外に営業や投資の部隊もいて総勢17〜18名のオフィスでしたが、オフィスに着くのはだいたい私が一番乗りでした。
その日もいつもと同じようにエレベーターを乗り継ぎ、同じ時間に事務所のハドソン川に面した自分のデスクに座り、パソコンを立ち上げ、朝ごはん用に持ってきていたおにぎりを食べようとしていた時のことでした。
突然、言葉で言い表せない、とてつもなく大きな炸裂音と衝撃、天井板があちこちで落ち、パソコンのモニター(ブラウン管のやつ)が音を立てて机から落ち、それよりも何よりも、ビル全体が振り子のように大きく揺れ、あたかもこのままビルが折れ、ハドソン川に落ちていくんじゃないか、と思う程でした。私の会社のオフィスは北棟の90階、南西角だったのですが、飛行機(アメリカン航空11便 Boeing767)はマンハッタン上空を飛び北からぶつかったため、飛行機が飛んでるくるところは見えず、何があったか全く理解できませんでした。ただ、揺れがおさまり、しばらくすると、窓の外を紙切れが無数に舞い飛んでいたので(通常、90階の高さで紙が舞い飛ぶことはない)、ああ、爆発か何かで窓が割れたんだな、と言うことは想像がつきました。
「何が起きたんだろう」 まず、電話機を取り、NJの自宅に電話をしました。電話はつながりましたが、家にいるはずの奥さんは電話に出てくれませんでした。前日から娘(当時1歳になる直前)が体調を崩していて、奥さんは夜中じゅう看病で疲れ、眠っていたのです。仕方なく、携帯電話となぜかラップで包んで食べる直前だったおにぎりをポケットにいれ、同じフロアの廊下に出ました。社内には私一人しかいなかったので、一人だと心細かったのです。同じフロアには、当社の他、日本の銀行が一社、現地の企業が2社ほど入っていました。
フロアに出てみると、日本の銀行はまさに北側に面しており、入り口を見るとすでにドアや壁が壊れ、火の手も上がっているようでした。「ああ、これはひどい、銀行の人、これじゃ助からないな。。。」と思ったものでした。(だいぶ後になって何かの記事で読んだのですが、オフィスが北側に面していたため飛行機が突っ込んでくるところを見て、衝突した後すぐに逃げたので全員がご無事だったそうです。。。よかった!)
それだけではなくフロアの壁があちこちで崩れ、通常見えることのないエレベーターケースの中のケーブルが丸見え、上のほうから火の粉がバラバラと落ちてくるような状態でした。額から血を流し「何があったんだ!?」と叫びながら歩き回っている米人と共に、何人かが集まっていた、もう一つの米系?の銀行のオフィスに入れてもらい、情報収集をすることになりました。誰かがビルの保安担当に電話したところ「Stay there」と言われたとのこと。ビルの保安担当も何が起きたか把握できていなかった模様です。
私も含め、みんなが不安がって、震えている女性もいました。ふと見ると、私の事務所の入り口の方からも煙が流れてきていて、もう中に入るのも憚られる状態。どうしよう、と思っていたところに、非常階段が開き、ビルのセキュリティの人が入ってきて「みんな、こんなところで何やってる、早く逃げろ!」と切羽詰まった口調で言われました。この人が来てくれなかったらずっとそこにいて、ビル崩壊に間に合わなかった可能性が高いです。
脱出
ともかく、同じように残っていた米人数人と共に階段で降り始めました。
90階から下に降りる非常階段は電気がついておらず、非常口の案内板の光だけがついていて薄暗く、スプリンクラーの放水によるものか足元が水で濡れた状態の中、ゆっくり歩いて降り始めました。途中誰かが足元を取られ滑って転んだりしながら降りていったので私も少し不安になったものでしたが、途中、78階のスカイロビーまで辿り着くと、普通に電気がついていて、床も濡れていませんでした。そこから違った非常階段を降り始めましたが、同じように電気もついていて、濡れてもなく、全く何事もなかったような状況でした。
ワールドトレードセンターには非常階段が3本通っていました。幅はちょうど上りと下りでちょうどすれ違いができるくらいの狭い階段でした。その中の一つを降りていったのですが、78階から下はそれなりに多くの人が降りていて、混雑していました。時に、負傷した人を担架で運んでいたり、消防士が重そうなホースだとか酸素ボンベだとかの装備を抱え、汗びっしょりになりながら辛そうに顔を歪めながら上っていく姿を見つめながら、私はひたすら下の階を目指しました。動きは遅くなったり足を停めたりしてノロノロと進んでいくような感じでしたが、誰も焦る様子はなく、コーラを飲みながら降りている人もいて、普通に歩いて降りていきました。ただ、その、コーラを飲みながら降りているおばちゃんが話しているのを小耳に挟んだところでは、飛行機がぶつかったらしいこと、小型機ではなく、大型の航空機(Commercial Jetと言っていたような記憶があり)がぶつかったらしい、というようなことを言っていたので、へぇ、そうなだ、と思いました。ただ、降りている時、誰も、このビルが崩れるということは想像だにしなかったと思います、私も含めて。
階が下がるにつれて降っていく人の数も増え、負傷者がゆっくり担架で運ばれるのを待っていたり、上ってくる消防士とのすれ違いの度にストップせざるを得ないのですが、私の近くでたまたま一緒に誘導しながら降りていたビルのセキュリティの人が、停滞するたびにそのフロアの他の非常階段を見に行ってくれ、空いている非常階段に誘導してくれスムーズに降りることができました。そんなことが3度ほど続き、4度目にビルの人が誘導してくれようとした時、なぜか私はついていかず、そのまま同じ非常階段にとどまりました。そうすると止まっていた人の流れが嘘のようにスムーズに流れ始め、ストレスなく下まで降りられました。 最後は2階か3階あたりでビルのテラスのようなところ、すなわち縁の方を回ってから地下に降りて、5WTCまで回って東側のChurch Streetの方に誘導されて外に出られました。FBIのジャケットを着た人がかなり厳しい口調で、急いで出ろ、というようなことを言っていたと思います。
北棟の1階出口から直接外に出なかったのは、今思えば、北棟の出口から直接外に出ようとすると上から瓦礫や人が降ってくるためとても危険であったためだと思います。実際、私も見たくもないものを見てしまいました。
崩壊
さて、ビルの外に出てホッとしたのも束の間、ちょうどビルの向かいのChurch Streetを渡ったところでゴォーっていう大きな音が聞こえたので上を見上げるとまさにビルが上から崩壊しているところでした。South Towerの崩壊が9時58分でしたからちょうどその頃に外に出られた、ということになります。
上の方から、煙のような瓦礫がスローモーションのように落ちてくるのが見えました。
「あの瓦礫に当たったら絶対に死ぬ」直感的にそう思って、ビルから遠ざかるように北に向かって全速力で走り出しました。多分、その時のスピードは当時陸上界をにぎわせていた「カールルイス」より速かったと思います。。。!
走りながら頭の中はなぜか冷静で、先の方にある建物の角を右(東)に曲がれば建物が盾になってくれ瓦礫には当たらないだろう、と思い、角を曲がりました。どの通りを曲ったかおぼえていないのですが、おそらくバークレーストリートだったのではないかと思います。セントポールチャペルを通り過ぎだビージーストリートVesey St. だと手前に高いビルがないので空から降り注ぐ瓦礫に当たると思い、角を曲がるとビルの影に隠れられるようにと考えたからです。
冷静な判断でした。
おかげで瓦礫には当たりませんでした。
ただし、崩壊したビルのコンクリートが細かく砕けた塵埃の嵐には当然ながら巻き込まれました。あの塵埃、すごく細かい粒で服の布で口や鼻を押さえても息を吸うごとに入ってきて鼻腔や喉の奥に張り付いて息ができなくなってしまうのです。おまけにあの嵐(砂漠の砂嵐をイメージして私個人的にこう呼んでいます)に包まれている間、光が全くない、完全な暗闇の状態になりました。完全な暗闇の中で私は平衡感覚を失い、立っていられなくなり、その場でしゃがみ込んでしまい、息が苦しいのと大きな不安が相まって、「ひょっとしてこのまま死んでしまうかも」と思いました。今回の事件で、唯一死を感じた瞬間でした。
ただ、暗闇が続いたのは時間的にはそんなに長くなかったのだと思います。だんだんと明るくなってきて、埃が薄くなり、周りが見渡せるようになってきました。なんとかなりそうだ、とホッとしましたが、口の中は埃だらけで唾液が全部無くなり、イガイガしてすごく不快な状態が続き、どこかに水はないか、歩き始めました。
取材
City Hall Parkの方に向かってしばらく歩いていると、メガネをかけたアジア人が興味深そうに私を覗き見て、日本語で「日本人の方ですか?」と尋ねてきました。「○○通信の者です。」 なんと、日本人の記者さんでした。私はホッとして「何があったんですかね」と尋ねると「テロですよテロ、旅客機がぶつかったですよ。WTCは2棟ともやられました。それにしてもご無事でよかったです。こんな大変なときですが、もしあなたのお名前だけでも教えていただけると、あなたのお名前が新聞に載って、あなたのことを心配されている方々に、あなたのご無事を伝えられるので、お名前だけでも教えていただけますか。」と言われて、そうか、なるほど上手いこというなあ、と思い、ただ、口の中が乾きすぎて飲み込む唾もない状況だったので、お水が飲みたい旨伝えると、走ってオレンジジュースを買ってきてくれました。その記者に、自分がいたビルのフロア、どうやって逃げてきたかを詳細にお話ししました。「そうですか、90階から走って降りてくると相当大変でしたね。」「いえいえ、走ってなんかいませんよ。ビルが崩れるなんて思わないから、ゆっくり歩いてましたよ。」こういう会話を繰り広げ、別れました。
後日、親が送ってくれた関西の地方新聞紙の切り抜きを見ると◯◯通信配信の記事として大きな見出しで「90階駆け降りた!」。。。おいおい、嘘を書くなよ、と呆れたものです。
もう一つ、取材といえば、事件から数日経った後の夜中の12時くらいでしょうか。某在京大手新聞記者から突然電話があり、これから電話で取材したい、と。時間も遅くあまりにも失礼だと思ったのと、当時はすでに、取材は広報部を通すように言われていたので、その旨伝えると、なんとその記者は舌打ちしながら、間に合羽ねぇんだよなぁ、と悪態をつきながら電話を切りました。それ以来私はマスコミの取材には苦手意識を持っています。まあ、取材されるようなことってないんですけどね。
家族への連絡
さて、通信社の記者と別れた後、家族に電話しなければ、とポケットに入っていた携帯電話で何度もかけようとしましたが、回線がパンク状態で全く繋がる気配なし。仕方がないので携帯電話を何度も掛け直しつつ近くにあった公衆電話にならび順番を待っていました。そうすると、奇跡的に携帯電話が繋がり家族に連絡を取ることができました。私自身は、「とりあえず生きてるよ〜」と冗談めかした口調で電話したのですが、電話の向こうの声は涙声でした。
こんな大変な目に遭ったのに、よくそんな平然としていられるね、と思われるかもしれませんが、事件後数ヶ月経った頃に私の大学時代の友人がWTCに入っていた日系証券会社の人事部にいた関係でニューヨークに出張してきたので夕食を一緒にした時に言われたのですが、「お前な、周りの人たちがお前のことすごく心配してくれて、言葉をかけてくれてるだろ、でも甘えるなよ、それは間違いなんだよ。お前は、飛行機がぶつかった瞬間も逃げている間も、埃にまみれた時も、常に「生きている」という実感ががあっただろう。でも、家族や友人達は、お前の安否がわからない何時間か、お前が死んだのではないか、と気が気でない時間帯があって、その時のストレスって計り知れないものなんだよ。」と指摘され、確かにそうだ、と納得したものでした。そう言われてみると、思い当たる節があって、テロの1ヶ月ほど前、私の両親がニューヨークに遊びに来たのですが、私の父親は田舎の出身で海外とは全く縁がない人間なので、私の安否が不明の時に「あいつがこんな目に遭ったのは自分がアメリカなんかに行ったからではないか。」と、ありえないようなことを言っていたそうなのですが、自分の子供の安否がわからない、となるとこんなことまで考えさせられるくらいのストレスが生まれるものなんだ、ということを思い知りました。
避難
さて、なんとか家に連絡がつきましたが、これからどうしよう、どうやって家に帰りつこうか、交通機関もストップしてるよな、ハドソン川渡れないよな、と考えをめぐらし、とりあえず、北に向かって歩き出しました。42丁目に当時会社が日頃の業務でお世話になっていた法律事務所のオフィスがあり、そこに行けば何か情報が取れるかもしれない、と思い、歩き出しました。歩き進めるにつれて、同じように通りを北に向かって歩いていく人の数が増えてきました。そんな中でも私は埃まみれで全身真っ白、たまに、見知らぬ米人が近づいてきて、WTCにいたのか?と聞いてくるので、そうだ、と答えると、無事でよかった、と無事を喜んでくれたり、街頭のテレビで、衝突の瞬間を初めて見て改めてびっくりしたり、シャワーだけでも浴びたいと通り沿いの有名ホテルチェーンに入ろうとすると、ドアマンに中に入るのを拒否されたり、と、嬉しい思い、悲しい思いなど感じながら、42丁目に辿り着き、弁護士事務所に助けを求めました。普段の業務で日常的にやり取りをして、よく知っている弁護士が出てきてくれ、空いている会議室に通してくれ、手や顔を洗わせてもらったりした後、話を聞いてくるとともに、ちょうどお昼時だったので、サンドイッチを出してくれ、疲れと空腹を癒すことができました。電話も借りることができて、同じNY事務所の同僚にも電話がつながり、無事を伝えることができました。帰宅するためニュージャージー側に渡るには、34丁目からHobokenまで船が出ていることが確認できたので、心からのお礼を伝え、船着場に行くことにしました。多分、午後2時ごろだったと思います。
帰宅
行ってみるとしかし、とてつもなく長い列でした。ただ、他に選択肢はないので、私も並びました。2時間、3時間近く並んだ後、やっと乗れました。他の交通機関が軒並み止まっている中で、料金もとらずに船を動かし続けてくれたNew York Waterwayのクルーの皆さんには頭が下がる思いです。その日、50万人近くが船で避難したそうです。
辛抱強く列にならび、やっとの思いでフェリーに乗り、Hobokenに着いたのはそろそろ陽が傾こうという夕方5時過ぎだと思います。Hobokenに着く直前、船のアナウンスで「WTCから○○フィート以内にいた人は徐染(De-contaminationと言っていた)するので駅の裏側に来てください」と言っていたので、ビルの中にいた私は当然該当するため、指定された場所に行くと、そこにいたのは消防車と屈強な消防士の方々。さて、何が始まるのかと思ったら、消防ホースを向けられ、水をバシャーってかけられて。。。天気の良い9月といえ、夕方だし、全身びしょびしょになるとさすがに寒かったのですが。。。
こうして全身びしょ濡れで震えながらNJ Transitの電車に乗り、無事Glen Rockに着いたのが、暗くなった夜7時頃でした。ちなみに電車でも、車掌さんの検札はなく、定期券をなくした私も問題なく乗れました。。。Glen Rockの駅には妻が車で迎えに来てくれていて、無事我が家に帰り着くことができました。
家に着くと、まず、米国での上司Aさんに電話をし、無事を報告しました。Aさんは「いやあ、本当に無事でよかった。心配してたんだよ。今日はしっかり休んでくれ。明日は。。。ゆっくりでいいから、NJの事務所に来てくれ。9時から対策会議をするんだよ。」
。。。あ、明日休ませてくれないんだ。。。と心の中で思いつつ、「わかりました。」と返事をする自分がいました。NJの事務所は、電車では行けず、私の住んでいるところから1時間弱車で走らないと行けない場所にあるのです。
その日の夜は、上司との電話の後、私自身、埃を被ってアスベストが心配だったのと、娘の風邪の診察をかねて、病院に行ったので、夜寝たのが遅くなってしまったので、果たして次の日の朝起きられるか心配でした。
翌日
さて、次の日、会社に行くことにしましたが、時間どおりに行くのも癪だったので(笑)、少し遅れて行くことにしました。多分、会議が始まって、20〜30分経った頃に会議室に入ったと思います。その会議は、当然ながら米人もいる会議なので、会議自体は英語で行われているのですが、Aさんが会議を仕切っていて、私が会議室に入ったのをみると、「ちょうど彼が来ました。彼は昨日あの現場にいて、90階から逃げてきたので、当時の様子を話してもらいたいと思います。」と、いきなり振られました。仕方がないので、ぶつかった時の様子、その後の90階での待機、90階歩いて降りたこと、ビルを出た途端に崩れてきたこと、埃まみれになったこと、などを話しました。それにしてもいきなり体験談を(しかも英語で)話せ、とは、なんと乱暴な上司だろう、と思いました。が、その後、アメリカ国内で、テロに遭った人たちの心のケア、というテーマが社会的に大きく取り上げられたのですが、その時のセラピーのアプローチというのが、自分の体験談を話すこと、つまり一人で抱え込まず、声に出して吐き出すこと、だそうです。そういう意味では、翌日から声に出して吐き出すことができたので、Aさんに感謝しないといけないですね。
それにしても、私のいたニューヨーク事務所は9時営業開始で、アメリカン航空11便がぶつかったのが8時46分だったのに、事務所にいたのが私一人だったってどういうこと?ということですが、皆さんだいたい9時前ギリギリに事務所いりする方が多かったのと、米人の社内弁護士Rさんなんかは、だいたい9時半過ぎの出社が定時だったので、ある意味、私以外の人たちはみんなリスク管理ができていたのかもしれません!?
Heroes
その社内弁護士のRさん、2000年4月に私が赴任して初出社の日、私を歓迎するどころか、彼の弟さんに赤ちゃんの話題で大興奮していて、私のことなどそっちのけでした。。。
Rさんの弟さんは、ニューヨーク市の消防士で小隊長でした。その日も当然のように貿易センタービルに出動され、そのまま帰らぬ人になりました。今でも思い出します。私たちが狭い非常階段を降りている時、分厚い耐熱服を着て、重いホースや酸素ボンベなどを担ぎ一段一段階段を上っていく消防士の方と何度となくすれ違いました。あの方々はあのタイミングで階段を上っていたということは、、、と考えると本当に胸が痛みます。
ヒーローということで言うと、我々が90階のフロアで不安に駆られながら居座っていた時に、早く逃げろ、と促してくれたセキュリティの男性が誰だったのか、その後いろんな本を読み、おそらくこの方ではないか、という方を見つけました。その本によると、この方も戻って来られなかったようです。勇気と責任感あふれるニューヨーク市民の皆様に頭が下がる思いです。
人々
テロからしばらくは非日常の極みでした。メディアも連日いろんな報道をおこなっていました。ある日、どこの新聞社かも忘れてしまいましたが、叙情詩的な記事が掲載され、その中で、『。。。崩壊した建物のオフィスのものと思われる物が散乱する中、1枚の会社の小切手を拾い上げる。その会社の名前は○○○○・・・』と、私の会社の名前が掲載される、ということがありました。
また、ある日、仮のオフィスで仕事をしていると、ニュージャージー州の消防局の人、と名乗る方からメールが届き、『瓦礫の中からあなたの名刺を見つけたので、このメールアドレスにメッセージを送っています。あなたはご無事ですか』と言うメッセージをいただきました。もちろん、元気でいる旨を返信しました。
他にも、友人が、わざわざ仮オフィスの電話番号を苦労して探し、私に電話をかけてきてくれたり、いろんな人と再会するたびに涙をながしてくれたり、と人の温かさに触れる出来事が多くありました。
復旧
さて、とりあえず命は助かりましたが、働く場所が無くなり、しばらくはこのNJのオフィスに通うことになりました。実は、テロから数週間後の10月1日付で私が働いていた会社は別の損害保険会社との合併が決まっていて、アメリカでも私の所属する損害サービスの会社と、同じ機能を持つ相手方の会社を合併することになっていて、かつ私の会社が会計上、非存続会社となるので、会計帳簿を9月末で閉じる必要があったのです。しかしながら、当時は、会計データのバックアップはとっていたものの、保存したデータを違う場所に保管する、というコンセプトがなく(ましてやクラウドなどという概念はまだない頃)、バックアップのテープもサーバーの横に置いているような状況でしたから、2001年1月以降のデータが全部なくなっていました。
さて困ったものだ、ということで、会計士とも相談しましたが、取引相手が日本の親会社だけでお金のやり取りがそんなに複雑ではなかったので、日本の親会社に残っているデータを元に帳簿を再構築することになりました。この作業は、会計知識のない私ができるわけがないので、会計担当のKさんにお願いすることになるのですが、NJの田舎にあるアメリカの本部ではKさんが通えないので、Jersey Cityにあるビルを間借りさせていただくことになりました。10月1日の合併後もしばらく、Jersey Cityの事務所で作業をし、その後、ダウンタウンにある合併相手の会社が入っているビルに合流しました。会計帳簿も細かい金額は合わないものの、なんとか完成し、無事合併作業も終えることができました。
私個人的にはテロの体験よりも、小さい組織とは言え二つの全く異なる企業文化を持つ企業が合併して机を並べて仕事をする中で、いろんなわだかまりや足の引っ張り合いなどもあり、それでも一つの会社として前に進めていかなければならない、というストレスの方が数段大きかったように思います。テロ自体はあの1発だけですが、会社が合併するということはそれから毎日その環境で仕事をすることになるので。あれから25年経って、今ではひとつの会社としてうまく融合されているのではないかと思います。
帰国
私は2004年にニューヨーク駐在を終え、日本に帰国しました。その後、台湾駐在やバンコク駐在などを経験し、今はグループ会社で業務を行なっており、2027年3月には定年退職となります。ニューヨーク勤務時代はテロからの復興を肌で感じ、世界の中心であるマンハッタンで働くことに誇りを感じ、忙しいながらも充実した毎日を送りました。台湾では、新たに買収した会社の運営に携わったり、2011年のタイ・バンコクの洪水による被害を受けた日系メーカーの保険金支払業務に携わったり、と、普通の保険会社の社員とはちょっと違った経験をさせてもらい、会社には感謝しています。
再訪
2017年8月、2004年の帰任後初めて出張でニューヨークを訪れ、週末の空いた時間を利用し、R弁護士の案内の下、グラウンドゼロにある911記念館を訪れました。タワー1屋上のアンテナ塔、壊れた消防車、そして当時の無線のやりとり、などあの壮絶な状況を思い出させるリアルな展示に、当時の様子をいやでも思い出さされました。また、犠牲になった方々一人一人の写真や経歴などもみることができ、R弁護士の弟さんも、もちろんおられました。あの事件を風化させないためにも一人でも多くの方にあの場所を訪れ、あの日、一体何があったのか、を知ってもらいたいと思います。
あとがき
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロでは4機の飛行機がハイジャックされ、世界貿易センタービル2棟が崩壊、米国防総省ビルも破壊、ペンシルバニア州の野原に一機が墜落したことにより3000人近くの方が亡くなり、その後のアフガン戦争でも多くの命が失われました。改めて心よりご冥福をお祈りします。
911テロ、そして会社の合併からはや四半世紀を迎えようとして、最近入社した社員はテロの後に生まれた世代、というのが隔世の感があります。
世界を見てみるとイスラエルとガザの戦争、ロシアのウクライナ侵攻、台湾海峡の緊張感の高まり、など、相変わらず人と人の殺し合いは終わりません。これは、ヒトという生物の悲しい遺伝子のせいなのかもしれません。
国家間の争いはつまるところ指導者同士のつまらないプライドによる憎しみ合いの結果、犠牲になるのはこうした、普段は政治や国家の争いとは無縁の、家族や愛する人を持つ普通の人たちであることを再認識してほしいです。今もウクライナやイランなど世界の至る所で戦争やテロ、殺戮が繰り広げられています。このような悲劇が世界からなくなることを心より願います。
mail : host@myseptember11.site

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